終戦によって、戦時下で強制的な供出や動員のための末端組織になっていた町内会組織(1940年の「部落会町内会等整備要領」で整備された隣組)は解散されたことになっていたはずでした。しかし、1947年に始まった共同募金に関する史料を見ると、現実には隣組は温存され「機能」していたとしか言いようのない面もあったようです。
1948年の国会では、隣組の人間関係を背景とする共同募金強制の実態が取り上げられています。
第3回国会 衆議院 厚生委員会 第4号(1948年11月24日)
実際地方の実情は、一旦解散いたしたはずの隣組の形式をまた復活させたかの観を呈するように、かつての隣組長であつた者を通じまして、各戸に割当強制寄付の要求が参つていることも事実でございます。これは現に私自身が受けて参りました経験でございますが、これはおそらく全国各地に同じようなことが行われているものと考えます。またそうした訴えもしばしば聞きますので、この共同募金についての強制割当寄付ということは絶対に禁止するように、各地方廳に対する通牒をあわせて出していただきたいと思いますが、その点はいかがでございましようか。
この頃の新聞でも、「隣組が復活したかのようだ」という市民の声が紹介されています。隣組を通した共同募金の強制割当は、隣組を通して公然と行われていた強制的な割当寄付/供出を思い起こさせるものだったのでしょう。
ただいま社会局長のお言葉の中に、勧誘はしなければならぬというお言葉があつたのですが、その勧誘がはなはだ危險だと考えるのであります。ことに隣組長であつたような者、あるいはその近所の者から、いわゆる勧誘という意思ではあるかもしれませんが、日常生活の常識から考えまして、いわゆるつき合いというものがまず義務的なものに考えられている今日の社会通念といたしまして、あの人が来たらどうしてもこれはやはり出さなければならないんぢやないだろうか。私の実際に見ておりますその一つの実例として、強制割当が来たために、入れなくてもよい質を入れまして、必要なものを質草として寄付を出さなければならないという実際情も実際にございますので、少くとも寄付は自由意思に基くところの寄付にすべきであろう。勧誘をするということ自体が、強制に堕する点が多々あると私は考えますので、少くともそうした隣組などというような、過去の形式を通じての恩誼、情館に関連あるような勧誘は、むしろ絶対に避けるべきであると考えるのでありますが、この点はいかがでございましようか。
「ご近所さん」が、「地区役員の仕事」のような形で集金に来る。「自由意思」よりも「つき合い」で「出さなければならない」状況に追い込まれてしまう。
これが、「町内会に集めさせる」恐ろしさ(共同募金を強制する側にとっては便利さ)ですね。本当に、「絶対に避けるべき」だと思います。